【IRON MAIDEN】私とメイデン1~サムホエア・イン・ヒロシマ

高崎“エディ”計三編集長のコラム・オブ・ザ・ビースト

第1回 私とメイデン1~サムホエア・イン・ヒロシマ

世の中には圧倒的にメイデンが足りない! ということで、アイアン・メイデン・ファン歴35年を迎えた自分が、僭越ながらメイデンについて語っていきたいと思います。第1回の今回は、メイデンとの出会いから決死の広島遠征までを。


8歳と7歳違いの2人の兄がいることから、気がつけば家にはキッスやレインボーなどハードロックのレコードが多数あり、また録画したNHKの「ヤング・ミュージック・ショー」でキッスのライブを見せられていたもので(両側の柱で光っていた猫が怖かったが)、何となく洋楽、特にハードロックに親しみはあったのだが、本格的に聞き始めたのは中2あたりから。最初にリアルタイムで聞いたアルバムはヴァン・ヘイレンの「1984」とエイジアの「アルファ」だった。1983~84年あたりだ。

当時は貸しレコード店が盛んで、アイアン・メイデンとの出会いもよく通っていた貸しレコード店でのことだった。最初に借りたのは2作目の「キラーズ」。メイデンが気になったのはジャケットの絵柄が同じキャラクターで統一されていたからで、当時は4作目まで出ていたが、中でもそのキャラクターが一番気に入った2枚目を借りることにしてみたわけだ。

最初に聞いたときは、まさしく「ぶっ飛ばされた」感覚になったのを覚えている。のちに、リリース当時はあまり評判がよくなかったということを知ったが、自分にとっては名盤だった。そこから、過去作をさかのぼり始めた。


ちょうど、他に利用していた貸しテープ店(カセットテープをレンタルしていて、店内で自分のテープに高速ダビングもできた……って、『日本むかしばなし』のレベルですな、これ)が閉店するときに、3作目の「魔力の刻印」、4作目の「頭脳改革」のミュージックテープ(レコード会社が販売したカセット入りのアルバムをこう呼んだ)が安く売りに出されていたので、迷わず購入。それこそ繰り返し繰り返し、テープがすり減るほど聞いた。まあそもそもレンタル落ちだったから、買った時点である程度すり切れていた気もするが。

ちょうどこの時期に、日本初のヘビーメタル専門誌『BURRN!』が創刊。そして5作目の「パワースレイブ」が発売となった。どちらも喜び勇んで買ったのは言うまでもない。実質ここから、怒濤のメタルライフが始まった(実は同時に怒濤のプログレライフも、怒濤のパンクライフも始まっているのだが……)。

そこからメイデンには、洋楽に関するあらゆることを教えてもらったと言っても過言ではない。同じレコードでも日本盤と輸入盤があること。アルバムからシングルカットされる曲があること。シングルは7インチ、12インチ、ピクチャー盤、変型ピクチャー盤があること。シングルのB面には未発表曲が入っていること(のちに、どのバンドもそういうわけではないことを知る)。この頃住んでいた福岡はロックが盛んで輸入盤店もたくさんあり、手に入りやすかったのも幸いだった。

「パワースレイブ」発売の翌年には日本ツアーもあり、これまた幸運なことに福岡公演も行われた。チケットが発売された85年2月はまだ中3で、寮生活をしていたのだが、ライブ自体は4月。そのライブを見るためだけに、高校からは寮を出て自宅通学に切り替えさせてもらった。今思えば全てがラッキーすぎる。まるで全てがメイデンに導かれていたみたいだ。


こうして、生で初めて見たメタルバンドはアイアン・メイデンになった。もちろんライブにもぶっ飛ばされたし、「次の来日も絶対行く!」と心に誓った。同年にはライブアルバム「死霊復活」が発売され、これは日本盤が待ちきれずに輸入盤で購入。日本盤が出たときには改めて買った。とにかくこの頃はメイデン関係で金が飛びまくった。

86年には6作目「サムホエア・イン・タイム」が発売。そして87年にはまた来日ツアーも実現……したのはいいが、『BURRN!』に載った予定を見て愕然! 福岡がない! 名古屋、東京(日本武道館)、京都、広島、大阪で終わり!? ここで、「全ての来日ツアーが福岡に来るわけではない」という新たな知識を得たのであった。いらん知識だが。

だが、福岡に来ないからというだけで諦められるわけもない。これは、一番近い広島に行くしかない! だがなにぶん高校生で、ただでさえレコードやら何やらで金も飛び気味。新幹線とホテルなんてとても考えられない。しかもド平日で、学校もある。さてどうする……。


計画はすぐに完成した。あまり真面目でないバイク乗りの友人S君に「チケットおごるから、広島まで乗せてってくれない?」と頼んだら、あっさりOK。2人分のチケット代で広島に行けることになった。


今調べたら、広島公演が行われた87年5月18日は月曜日。朝、着替えをカバンに詰めて「今日は友達の家に泊まるわ~」とか何とか言って家を出て、駅で着替え。まるで後の家出少女である。すぐにS君と合流してヘルメットを渡され、いざ出発!


実はバイクに乗るのはこれが初めてで、剥き出しの状態で自動車の間を、しかも同じスピードで走るのは爽快とかでは全くなく、恐怖しかなかった。「やべぇ!」としか思えなかったことをよく覚えている。


それでも慣れてくると爽快感も出てくるのだが、2人乗りのため高速は使えず、一般道なのでやたらと時間がかかる。関門海峡を渡って突入した山口県がやたらと広いことを思い知り、休憩を挟んで広島に到着したのは夕方の5時ごろだった。広島市内では歩道橋の上からチケットを落とすという大チョンボと、そのチケットが下の駐車場から無事に出てくるという奇跡も味わった末、いよいよライブが開始! ドラムセットの下から膨らんで現れる大エディに興奮したりして、生涯2度目の生メイデンを満喫。「来れてよかった~」と心から思った。


だが、問題は帰り道だった。さすがに2日続けて学校をサボるわけにもいかないので、終わってメシ食ったらすぐにトンボ帰りである。今度は夜で、しかも疲れている。眠い。後ろに乗っていると、掴まっている以外にやることもないので、意識が遠のく。ゴン。ヘルメットの前頭部が、S君の背中にぶつかる。いかんいかん。だが眠い。ゴン。いかんいかん。


温厚なS君も、何度目かにさすがに怒った。バイクを止めて、「頼むから起きとってくれ! 死ぬぞ!」とキレられた。よく考えたらS君こそ疲れていただろうに、タフなヤツだ。「わかった……」とうなずくものの、再開してしばらくしたらまたゴン。いかんいかん。結局、帰りの道中で3回ぐらい怒られた。


で、翌朝には何とか福岡に到着。よく死ななかったものである。もうヘロヘロだったが、火曜だから学校に行かねばならない。S君は真面目じゃないので「俺は帰るわ~」と帰宅。また駅で着替えていつもの電車に乗り、何食わぬ顔で登校。いや、一日中死ぬほど眠かったが。


ちなみに、実際は「何食わぬ顔」でも何でもなく、学校近くの駅で友人に会うなり「お前、それで来たの?」と目を丸くされた。一日バイクに乗ってて、顔がススだらけで真っ黒だったらしい。あー、顔なんか洗ってないしな。ちなみに服もススだらけだったから、後に親にもバレた(笑)。


高3で受験生だったのに学校サボってライブに行くのも、今考えたらかなりアレだが、このときに広島に行ったのはホントにいい思い出だ。で、これで「やっぱ東京行かないとダメだ」という思いを強くしたのだった。プロレスもライブも、福岡はそこそこ来るには来るんだが、一番いいところは東京じゃないと味わえない。ということもあって、志望大学は「東京周辺」に絞ったのだった。


長いこと書いたが、中2の84年から高3の87年まで、4年弱の期間のことでしかない。このペースで書いてたら(これでもものすごく駆け足なんだが)、10回近く続いてしまうことになるので、次回で残りの30年を一気にぶっ放すことにする。なのでもうちょっとだけ、思い出話にお付き合いください。


TEXT by Keizo "Eddie" Takasaki, Chief Editor / 高崎”エディ”計三編集長

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